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今宵、神楽坂で

第二十二号 (2021年07月)

ちょっと昭和の話しをしようか

2021年07月08日 15:39 by kneisan2011

 

私は1965年11月5日、静岡県熱海市に生まれた。1964年東京オリンピックの翌年だった。産声をあげた熱海国立病院は、故石原裕次郎が入院していたこともあるそうだ。母は身体が弱く流産を繰り返し、帝王切開の末にやっとこさ私は生まれてきたのだった。

 

私は一人っ子だった。父と母は自宅で洋服屋を営んでいた。母の父が洋裁の職人であったところに父が奉公に入り、そのまま母と所帯を持ったということである。幼少期はどこにでもいる普通の子どもと変わらず、よく遊びよく食べ、というところだが身体は小さく華奢で何となく運動音痴コンプレックスがあったことを覚えている。父親はハンディキャッパーだった。だから健常者に負けるものかと頑張る父の背中を見て育ったせいか負けん気は人一倍強かった。勝てないケンカをしては泣きながら家に帰り、また父に叱られるという賢くない日々を過ごした記憶がある。中学生のときに何となくバレーボール部に入った。それも近所の仲間の数人が入部するからという理由でだった。背もそれほど高くない自分は辞めはしなかった。何となく、それなりに最後まで続けることができた。

 

中学進学と同時に一度に三人の女子から交換日記を申し込まれた。訳も分からず、まあ嬉しい話で第一回のモテ期だったのかもしれない。しかし彼女とも、交換日記も長続きした記憶も無く、いろいろと自然消滅したんだろうと思う。ところで中学在学時に赴任してきた体育教官の柴田先生が凄まじい人物だった。後に彼は無名の熱海中学校バスケットボール部をたった3年で静岡県優勝一歩手前まで導いたのだが、一般の体育の授業がこれまた衝撃的だった。手始めに叩き込まれのがお辞儀の仕方だった。ズボンの折り目に中指を合わせ背筋を伸ばしたまま45度にお辞儀する。これを何度も繰り返すのだが、まあモタモタすれば往復ビンタが飛んでくる。生徒の中で殴られなかった者はいないくらい激しかった。時代といえば時代なんだろうが、昭和の男はかくも激しかったのだろうか。このバスケットボール部は三軍まであり全校生徒の注目の的だった。

 

 

のんびりした温泉地、熱海育ちの少年たちは柴田先生に喝を入れられてちょっぴり逞しくなったのかもしれない。先生には3年生の時に直接担任を受け持っていただき毎日緊張した日々を過ごしたわけだが、卒業式の日に教室で涙を流されていた先生の姿を今でも鮮明に覚えている。

 

中学を卒業し高校受験といういわゆる「受験」というものを人生初めて経験した自分だったが、私は中学一年生のころから志望校を決めていた。それは静岡県立伊東高校という何の変哲もない田舎の高校なのだが、他に併願をせず滑り止めなしの単願で入学したいと思っていた。ある時期のテストで私は少しだけ成績が悪く柴田先生に呼び出され、喝を入れられた。このままの調子では単願なんてとんでもないというわけだ。そのとき私は悔しくて涙を流したのだったが、そのとき先生はこう仰った。「男は悔しいとき、悲しいときは泣くな。男は嬉しいときに泣くんだ」と。今でも私はこの言葉を鮮明に覚えている。目標達成に全力を賭し、成し遂げた者だけが味わえる喜びの涙を流せ、とはいかにもスポーツマンらしい先生の言葉だった。思春期の多感な時期に激しく鍛え、育ててくださったことには感謝しかない。

 

無事に静岡県立伊東高校に入学しバレーボール部に入部した。公立高校でありながら県内では強豪校だった。背の低い自分はその世界で通用するレギュラーになるなどということは難しいことだと知りながらも、その厳しい世界の中に身を置いてやり切るんだという変な信念があった。練習は想像以上に厳しく、当時は殴られるのは当たり前。パイプ椅子は飛んでくる、水は飲めない、それこそ救急車が来ることもある壮絶な練習だった。生き残った(無事卒業までバレーボール部を続けた)連中とは30年を越えた今でも家族のように仲がよい。練習中は雨嵐のようなシゴキに耐え、ぶっ倒れる、ないしはぶっ倒れたフリをして己の身を守った。いかし自分は以外にもタフで、練習中は何とかコートに立ち続けることが出来た。ここでも恩師と呼べるであろう村山監督との出逢いがあった。

 

 

恋愛もした。高校へは毎朝駅前からバスに乗って行くのだが、決まったバス停から乗ってくるある女子が気になり、告白するとスンナリ付き合うことが出来たのはラッキーだった。伊豆地方に数軒喫茶店を経営する家柄のお嬢様で、お父様は市議を務めたりする地元の名士だった。私たちはそれなりの当時の高校生らしい恋愛をしたわけだが、彼女は自分が出るか出ないかもわからない試合によく応援に来てくれた。しかもお手製のお弁当まで作ってくれた。何となく仲間に対して鼻の高い自分がそこにいたのは言うまでもない。

 

自分はピンチサーバーという仕事と、現代のバレーボールでいうとリベロという専門のレシーバーの仕事を任されていた。まあ、現代のリベロはサーブは打たず、まさに専門のレシーブ要員なわけであるが。また、当時のバレーボールではジャンンピングサーブなるものは存在せず、背の低い自分でもボールを変化させるサーブを打つことで相手を翻弄することができた。何故か1年生後半から2年生にかけてサーブの調子が良く、試合にも度々使われ何となく手応えのあるバレーボールをしていた。しかしである。何の心境の変化か、今でいうメンタルの弱さなのか、3年生になると調子が悪くなり、サーブも入らなくなった。自然と出番も減り、腐りかけた自分がそこにいた。55歳の今の自分が当時の自分を見つめれば簡単なこと。ただただ一心不乱に練習していた1,2年生の自分がいて、向上心を忘れて何となくバレーボールをしていた3年生の自分がそこにいただけである。しかし救いだったのは、一緒に歯を食いしばり耐えてきた仲間たちと一緒にいる道はあきらめなかったことだ。まあまあ強豪校だったバレーボール部は数十人入部はすれど生き残るのは数人という中で、自分の居場所と今も関係が続く仲間と巡り合えたことは何よりも代えがたく、またお金では買えない財産になった。仲間にはたくさん迷惑をかけたが無事3年生の引退までバレーボールを続けることが出来た。

 

文武両道が校風ではあったが、「文」がかなり疎かになった高校生活であった。自分としてはぼんやり大学生活を夢見ていたがなんせ文武の両立が出来ず、バレーボールを引退した後に慌てて進学準備を始める有様だった。そんな夏に父親が倒れた。何となく自分の家の経済状況を含め考えて大学進学はあきらめ、ホテルに住み込みながら専門学校に進学する道を選んだ。その頃私は海外に強く憧れを抱き、ひょんなことから知り合ったイギリス人のガールフレンドにも感化され、人、文化、語学など海外というものに大いに興味を奪われ、海外生活に対する憧れが大きく膨らんでいった。しかし具体的な手段や職業に対する明確な目標を持たないでいたのだが、専門学校卒業と同時に洋酒メーカーのサントリーが海外で高級日本料理店を展開していることを知り、何とか雇ってもらうことになった。

 

 

私は入社すると、当時世界の主要都市に和食、寿司、鉄板焼きのコーナーを併設する高級日本料理店のグループ会社の社員としてイタリアはミラノへの配属を命ぜられた。しかしその時でも自分には本当に将来に対する明確なビジョンが無く、まあ海外に行って25歳くらいまでに日本に帰って来たらそれから人生考えよう、くらいの腑抜け思考だった。飲食業、サービス業も一生の仕事とせず家庭を持ったら早く家に帰る仕事をしたいななどと本当に甘く漠然とした姿勢だった。

 

 

しかし、この1986年から1990年までのイタリア生活の4年間が今の〈VINO NAKADA〉のコンセプトのベースになっていることは間違いない。皆さんはイタリア、イタリア人に対してどんなイメージがあるだろうか? ラテン系、陽気、いい加減、女好き、時間を守らない、酒好き、おしゃれなどいろいろあるだろうが、生真面目な日本人にはビジネスパートナーとしては組みづらい人種かもしれない。しかし裏返せば、人懐っこく感情的で芸術肌で、おせっかいなイタリア人のサービス、もてなし、接客などは日本人をはるかに超える素晴らしさがある。懐に飛び込む奥の深さ、プロ意識の高さ。確かにチップ制度というものが背景にはある。それは日本には根付いてないものだ。また当時飲食業の社会的地位が日本よりもヨーロッパの方が高かったのは確かだ。またレディファーストの文化は今でこそグローバル化の中で理解されているやもしれないが、当時の日本の男どもには照れくさくてとても出来たものではなかっただろう。それらは正しく、文化、習慣の違いを実感する瞬間だった。

 

 

自分らしさを前面に出す彼らには、ストレスは溜まりづらく、逆に個性として輝く。輪を貴び、忖度などという言葉が聞こえてくる日本人にはもしかしたら理解しがたい文化、習慣なのかもしれない。少し大げさに書いてしまったかもしれないが、人に喜んでいただくことに徹し、しかも自分の個性を殺さないプレースタイルを私が目指しているのは間違いないところだ。たまたまお店を持ち、酒、食べ物を通して人様の喜びを作り出しているわけだが、この夜、この人、この酒、この食卓を精一杯楽しんでいるイタリア人。そう、その楽しい食卓の風景を〈VINO NAKADA〉で演出したいと考えているのである。

 

 

 

中田 久義

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