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今宵、神楽坂で

第十八号(2021年05月)

バー巡り・其の九(前篇)

2021年05月12日 21:14 by kneisan2011
2021年05月12日 21:14 by kneisan2011

Book & Bar 余白』

 

 

■瞬いたら5年経っていた。

 

  ウルフルズの『ガッツだぜ!』(1995年11月)という曲の中に「生まれて死ぬまであっちゅー間」というフレーズがある。いつだったかNHKの番組を観ていたら人生の大先輩が3人、画面いっぱいにニコニコしながら映っていて、インタビュアに「これまでの100年の人生はどうでしたか?」と雑な質問をされていた。3人のおばあちゃん、おじいちゃんは異口同音に「あっちゅー間だったわな」とおおらかに笑って答えていた。私の座右の銘は〝Have Fun〟「楽しめ」だ。だって人生あっちゅー間なのだから。今を愉しみ味わなくてどうする? そして<Book & Bar 余白>は2016年春に店を開けると、あっ!というどころか瞬きする間に5年が過ぎ去っていた。神様、コマ送り早すぎ。もう少し日々を堪能させてはくれまいか。

 

  今回の記事はインタビュー形式でない。これまでの8店舗は前回の〈bar Morrlü〉さんを除き、私が各店舗にインタビューをし文章を書いてきた。Web magagine『今宵、神楽坂』を始めて10か月余。今回私の店の番がやってきたが、自分の事は自分で書くことにした。だからときどき自家撞着になってしまうことがあるかもしれない。気を付けながら、けれど誤解を恐れずに書いていこうと思う。よろしくお願いします。

 

 

■夜明け(余白)前

 

 これまで10か月このマガジンで神楽坂のBARを取材してきた。それで当たり前のことだけどどこもみなBARなのである。正統的であるし形式体系が整っている。正直言うと私は他店にお伺いし話を聞きながら恥ずかしくなっていた。「うちはBARじゃないじゃん。普通に飲み屋さんじゃん。」 そう、Book & BarとBarの名をつけているけど、〈Book & Bar 余白〉は言ってみれば飲み屋さんカテゴリーだったのだ。軽々に店の名にBARという言葉を冠するといういけないことをした。しかもここは神楽坂。そのくらい私は無知で破廉恥だった。

 

 私は店を始める10か月前まで約30年間会社勤めをしていた(終わりの方の9か月ほどは大学勤めだった)。正直言うと最後の職場を辞めてしばらくの間は精神のダメージが甚大で、かなりヤバかった(そこは組織的パワハラ職場だったのだ)。未来の見取り図を持たず人生50歳を過ぎて空中ブランコのバーから手を離してしまった。母船を捨てて宇宙空間を泳ぐ映画『ゼロ・グラビティ』のサンドラ・ブロックやジョージ・クルーニーのように。でも私は彼らのように強くはなかった。不安に圧し潰されそうだった。来る日も来る日も妻と話しをした。妻も枕に顔を埋めている私を見るに見かねていた。話し合いは「これからどうする?」その一点に全集中。あるとき「ちょっとしたつまみと酒を出す店やろうと思うんだ。棚にたくさんの本を並べてね。」とふり絞るように言うと、「い、い、いんしょく!」と妻が絶句したのを覚えている。「飲食だけはありえない選択肢だと思ったわ。」と今でもときどき妻は言っている。

 

 

■後押し

 

 先にも一寸触れたけど2014年から2015年にかけての大学職員勤務は無かったことにしたい暗黒時代だ。私は一日中自席に縛り付けられていた。23区内への「出張」も前週に届けを出さなければならない。外出はときどき大学構内棟での会議に出席するくらい。元からいた古参のスタッフにとっては新しいことを提案したり、不遇に処されている若手職員とコミュニケーションをとる私が目障りだったのだろう。余計なことはせずに一日デスクから離れないでくれ、ということなのだった。8時30分の始業から17時30分の終業までの9時間、ノートの端に書いた棒グラフに経過した時間分の面積を塗りつぶしながら一日を過ごしていた。地面に穴を掘り、その土を埋め戻す作業を延々と繰り返すような毎日。

 

そんなある昼休み、一通のメールがiPhoneに飛び込んできた。送り主は村上春樹さんだった。画面を見てカラダに電気が走ったのを今でも鮮やかに覚えている。実は数か月前、私は村上さんにおりいって相談をしていた(※)。その内容はこうだ。

 

  「神保町あたりの路地裏に小さなBARを出したいと思っています。妻と二人で本に囲まれた店を。チーズと豆が好きな妻が料理を作り、私はドリンクを作ります。築地に魚を、週末には鎌倉野菜を買いに行きます。店の本棚には国内外の文学、哲学・思想・歴史の本、芸術書や写真集やサブカル、自然や生物の本、そして絵本や料理などの実用書も並べます。お客さんは酒を飲み、料理を口にしながら店の本を自由に閲覧することができます。BGMには70年代から80年代のロックを。妄想はむくむくと膨らみますが私たち夫婦は全くの素人です。こんなお店にお客さんは来てくれるでしょうか。不安がいっぱい。村上さん、どうかアドバイスをお願いします。」

 

  そしてこの質問・相談に村上さんはちゃんと返事をくれたのである。ここがポイントなのだが、村上春樹さんは私の質問・相談をちゃんと読んでくれて私だけに返事をくれたのだ。村上さんの回答は次の通りだった。

 

“なかなか素敵そうなお店です。うまくいくといいですね。この手のお店は、楽しみながら、気長にやるのがコツです。たぶん(失礼ながら)そんなにはもうからないんじゃないかと思いますが、夫婦二人食べていくくらいはできるでしょう。最初の半年は、あまりお客が来なくても食いつなげるくらいの資本が必要になります。でも半年を越せば大丈夫でしょう。健闘をお祈りします。喧嘩しないように、仲良くやってください。”

 

私は天にも昇るような気持ちだった。私は村上春樹さんにポンと背中を押されたのである。〝Have Fun〟「楽しめ」と。

 

 

もう一人、背中を押してくれた男がいる。それは空中に放り出されエンジンが止まってしてしまった私にデパスを処方し、アドバイスをくれた高校時代の友人の医師・Kだった。彼は優しかった。そしてちょうどその頃封切られた一本の映画を観るといい、と教えてくれた。それは『LIFE!』というベン・スティラー監督・主演のヒューマン・アドベンチャーだった。グラフ雑誌『LIFE』のネガ管理という地味で変化の乏しい業務に従事している臆病で不器用な男が、リストラの憂き目(印刷媒体からオンライン版へ移行のため)に遭ってしまう。その彼が一大奮起し、ある重大なミッションを携え波乱万丈の旅に出ることになった。いきなりダイナミックな世界にダイブしてしまった彼のそれは人生を変える旅だった。壮大な体験を終えてニュー・ヨークに戻って来た彼は使命を成し遂げると『LIFE』を去り、再開した意中の女性とともに人生の次の扉を押し開く。私は妻とこの作品を劇場で観て、エンドロールが流れ切ったあともしばらく席を立てなかった。〝To see life ; to see the world.〟 「人生を見よう、世界を見よう」 そして〝Have Fun〟「人生を楽しめ!」のメッセージを私(と妻)は受け取った。

 

 

■どうして神楽坂なのか? 

 

 この町に私は流れ着いた。当初私はかつて四半世紀勤めた出版社の所在地の近くに物件を探していた。神田神保町だ。「元出版社勤務の営業部長がビッシリ本を並べたBARをやっているらしい」という噂がこの町の人口に膾炙されれば何とかやっていけるんじゃないか。それは本の町・神田神保町くらい相応しい場所はない。2015年秋、心のリハビリをかねて神田の町を正に鼠の抜け道まで舐めるように歩き回り、物件探しは真に縁なのだと悟るにいたった。千代田区の20パーセント程度の地面を2か月かけて歩いたのだけどバーをするような物件は結局見つからなかった。そして11月。村上春樹さん風にいうなら「ある気持ちよく晴れた月曜日に」たまたま神楽坂を歩いていたら大久保通り沿いに白いシャッターの閉まった空き物件を見つけたのだった。「あ、ここいいかも」と直感が働いた。その足ですぐに管理元の不動産屋さんに行って尋ねてみると、そこの責任者の方は「ええ、テナント募集中です」と言った。

 

  そのあとすぐ「でも」と彼は言った。「でも、何です?」と私。そうして聞くところによれば、そこは10か月ほど空いていて、その間少なくない人が問い合せてきたのだけどビルのオーナーさんがなかなか首を縦に振ってくれないということなのだった。そのビルはオーナー自らデザインをし大変愛着のある建物であり、路面に飲食店を入れるにしてもビルとの調和、すでに入居しているテナントのアグリーメントも必要だということだった。

 

  私はこの場所が気に入った。神楽坂なのだけど、ちょっと控えめなこの場所が。〝目立つことが超苦手な妻も〟ここなら気に入ってくれるだろうと思った。その日家に戻り妻に報告をすると、オーナーに宛てた出店企画書の作成にとりかかった。ラブレターを書くみたいに。それは自分の心に張り付いた何枚もの薄皮を剥がしていく作業でもあった。

 

 

(※)村上春樹さんが質問者から寄せられた「村上さんにおりいって聞きたいこと」にお答えする『村上さんのところ』というタイトルの期間限定のウエブ・イベント。2015年冬から春にかけて行われた。で、私も件の質問メールを『村上さんのところ』に送った次第。届けられた質問は37,465通とのこと。返信元はサイト運営母体の新潮社であり、村上春樹さん名義を便宜的に使用した(のだと思われる)。

 

 

< Book & Bar 余白>

162-0816 新宿区白銀町1-13 第11シグマビルディング1F 

Tel 03-5229-7016

営業時間  18:00 ~ 25:00 日曜は18:00 ~ 24:00

2021年5月時点は新型コロナの影響を受け変則営業中)

定休日 月曜

喫煙 NG 

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