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今宵、神楽坂で

第十三号(2021年2月)

アイラ島のシングル・モルト・ウィスキー

2021年02月25日 01:20 by kneisan2011
2021年02月25日 01:20 by kneisan2011

村上春樹さんの紀行エッセイに『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』という作品がある。単行本の発行は1999年12月。その時私はこの本を出版する会社の営業部に在籍していた。当初村上さんからは、走ることをテーマで原稿をいただく予定だったのだが、残念ながら時期尚早とのことでそれでは代わりにウィスキーについてのエッセイをどうぞ、ということになったのだ。(走ることについての本はその後、他所の出版社から刊行された。)本書は120頁程度の掌編である。そして何といっても素晴らしいのが春樹さんの妻・陽子さんが撮影したアイラ島とアイルランドの風景、建物、人物の写真だ。日本とはまるで違う色彩の際立ちに思わず溜め息がでる。春樹さんの文章に寄り添うように本の中に息づいている。ページいっぱいで裁ち落とした写真の見せ方もセンスがいい。それが45カットも収載されている。

 

 

村上さんご夫婦はアイラ島とアイルランドを旅した。アイラ(Islay)島は、イギリス・グレートブリテン島北部のスコットランド西部に位置している。スコットランド最大都市グラスゴーから西へ約100km、空路で45分ほど、バスとフェリーを使うと6時間くらいで着く。一年を通してバード・ウォッチャーに人気の島であり、スコットランドで最も美しい島と言われている。そしてもちろん、この島を有名にしているのはそこで生産されるシングル・モルト・ウィスキー(※1)によってである。東京23区ほどの広さの島にアードベック、ラガヴリン、ラフロイグ、ボウモア、ブルイックラディー、キルホーマン、カリラ、ブナハーブン、アードナッホーの9つのシングル・モルト・ウィスキー蒸留所がある。(キルホーマンは2005年6月、アードナッホーは2019年1月にオープン) 村上さん夫妻が旅をされた時の蒸留所の数は7つだった。ちなみにこの島の住民は3400人ほどしかいない。

 

 

 

村上さんはボウモア蒸留所のジム・マッキュエンさん(※2)という曾祖父の代からボウモア蒸留所で働いているというマネージャーにガイドしてもらい島を巡った。村上さんはジムに“訊くだけ野暮と知りつつ念のため”質問する。「目をつぶって飲んでもみんなちゃんとそれがどのウィスキーか、ひとくちで正確に言い当てられるんでしょうね?」と。ジムは「そんなこと当たり前じゃないか」とぴしゃりと言い返す。「当然だ」と。

 

また村上さんは島に住む人をつかまえて質問する。毎日シングル・モルト・ウィスキーを飲んでいるのか? ビールはそれほど飲まないのか? ブレンデッド・ウィスキーは飲まないのか? 島の人はあきれた顔をして答える。いつでもシングル・モルトに決まってるじゃないか、ビールは飲まない、ブレンデッド? え、嘘だろ、という顔をされてしまう。

 

村上さんは地元の小さなパブのカウンターでグラスを並べて飲み比べをしている。「癖のある」→「おだやか」の順番にならべると次のようになったということだ。(※3)

①―アードベック(20年/1979年蒸留)

②―ラガヴリン(16年)

③―ラフロイグ(15年)

④―カリラ(15年)

⑤―ボウモア(15年)

⑥―ブルイックラディー(10年)

⑦―ブナハーブン(12年)

 

そして今私が本や雑誌、ネットで調べてみると、その多くの記事で「癖のある」→「おだやか」な順におおむね次のように並んでいる。こちらは村上さんがアイラ島で飲まれたのとは違い、スタンダード品である。

①―アードベック(10年)

②―ラフロイグ(10年)

③―ラガヴリン(16年)

④―カリラ(12年)

⑤―キルホーマン マキヤーベイ

⑥―ボウモア(12年)

⑦―ブナハーブン(12年)

⑧―ブルイックラディー クラシックラディ

 

ほとんど同じ順番だ。さすが村上春樹さん。土地の人はたいていウィスキーと水を半々くらいに割って飲む。

 

 

牛込北町の交差点から矢来町の方面に少しばかり上がって右側に〈キイトス茶房〉という喫茶店があった(2019年9月30日に閉店)。テーブルごとにライトがあって本を読む人に優しい場所で何よりこの店には本と雑誌が山とあった。二千冊、いやそれ以上あったかもしれない。中央に大きな対面カウンターがあって真ん中に本の面陳棚が設えてあった。たいてい私はそのカウンター席の村上春樹さんのエッセイが並んである辺りに座り、平日の午後に珈琲を飲みながらゆったりと頁を捲った。珈琲を啜りながら『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』も読んだ。本の最初のところで「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」それはこういうことなんじゃないかな、という村上春樹さんは書いている。

 

もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な時間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは――少なくとも僕はということだけれど――いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。〟

(『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 平凡社・単行本版 11頁)

 

本を閉じ、窓の外を眺めていると、そこにアイラの鉛色の海と空が、緑色の草原とスコットランドの羊たちが、鮮やかな色のペンキで塗られた小さな町のパブが、見える気がした。

 

3月になるとアイラ島の蒸留所では土、日曜にツアーを組むところがでてくるとのことだ。観光客も少なく、余裕をもってシングル・モルト・ウィスキーの聖地を〝巡礼〟できる。じっくり巡りたいなら3月はお勧めのシーズンらしい。

 

※1)シングル・モルトのモルトとは大麦麦芽のこと。その大麦麦芽だけを原料としたウィスキーをモルト・ウィスキーという。シングルは「単一の蒸留所」を意味し、そこで作られたウィスキーを瓶詰めしたものをシングル・モルト・ウィスキーと名乗ることができる。1963年、スペイサイドのグレンフィディックが世界で初めてシングル・モルトとして販売を開始した。

※2)彼は1990年代半ばからブルックラディ蒸留所の革新に参画した。また2019年1月に新しく立ち上げられたアードナッホー蒸留所で陣頭指揮に立った。アイラ島の伝説の人物といわれている。

※3)アイラのシングル・モルト・ウィスキーは個性的である。煙たくて、正露丸のような味がして、磯っぽい香り。これはアイラ・モルト最大の特徴「ピート香」によるものである。アイラ島の湿地に堆積した苔や海藻、枯れた植物などの泥炭は強烈な磯臭さをもつ。麦芽を乾燥させる際にこのピートを焚くのだが、その香りが移りアイラ・ウィスキーの独特な味わいとなる。

 

 

Book & Bar 余白  根井浩一

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