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今宵、神楽坂で

第六号(2020年10月)

南仏プロヴァンスの豊穣、そしてパスティス

2020年10月29日 04:18 by kneisan2011

かつて社会現象といってよいほどのプロヴァンス・ブームがあった。30年前のことで、その火付け役になったのは『南仏プロヴァンスの12か月』(ピーター・メイル著・1989年刊行)というエッセイだった。多忙な広告マンだった著者はロンドンの家を引き払い、南仏プロヴァンスの200年の雨風に晒され日に灼かれてきた石造りの家に妻と移り住んだ。プロヴァンスの素晴らしい自然、土地の人との濃密なふれあい、ワイン、リキュール、豊かな食生活。その生活に全身全霊が染まってゆくダイヤモンドのような時間を12か月分12編のエッセイにまとめたのである。

 

 

ヨーロッパ大陸は広く、北と南では気候風土、そこに暮らす人々の生活様式、気質、食べものまでまるで違う。いつ雨が降ってくるかもしれないイギリスや、長く寒い冬が居座る北欧に暮らす人々が南仏プロヴァンスの抜けるような青空とたっぷりな陽光に憧れるのは無理もない話。バカンスで訪れるだけでなく、リタイアして移り住もうと考える人々も少なくない。滋味豊な土地から採れる新鮮な食材、感動的な料理とワイン、パスティス、土とともに生きるたくましい農民や、マイペースだけど腕は確かな職人たち。朝から晩までギスギス、齷齪する都会人が夢見る幻想に限りなく近い田舎暮らしを求めて。

 

このエッセイでは食に関わる表現はとっても色彩豊かで饒舌だ。日本にいる私たちは美味しいものを口にできる贅沢をかなり担保しているけど、そして神楽坂には圧倒的なフレンチを提供するレストランが数多いけれど、本書に出てくる料理を想像してみると一寸胃袋の全領域を明け渡したくなる。そう、こんな表現に出会ったらどうすればいい? オリーブ油をたっぷり使って炒め、新鮮なバジリコを散らしてよく冷やしたローストペパー、ベーコンで包んだ小ぶりのムール貝の串焼き。緑の濃淡も鮮やかなレタスを敷いてオリーブ、アンチョヴィ、ツナ、ゆで卵、薄切りのじゃが芋にオリーブオイルのドレッシングをたっぷりかけた山盛りのサラダ。アスパラガスの若い芽は茹でて熱く溶かしたバターで。焼きたてのピザ、輪切りのハム、山羊のチーズ、ハーブやコショウの実入りのソーセージ、風味のいい小粒のヌガー‥‥。プロヴァンスの食卓は垂涎の域をはるかにこえてゆく。

 

ところでプロヴァンスの料理のお供はもちろんワインだけど、南仏を代表する酒にパスティスがある。パスティスはスターアニス(八角←中国料理にもよく使われる香辛料の一つ)やリコリス、フェンネルなどのハーブで香り付けがされているリキュールだ。度数は45度程度と高い。食前酒として水で割ったり、氷を入れて飲む。水を加えると自然乳化する(白濁する)特徴がある。実はパスティスの先輩にアブサンというリキュールがある。アブサンはその原材料であるニガヨモギに含まれる成分に幻覚などの向精神作用があるとされ、20世紀初頭に多くの国でその製造・販売が中止されてしまった(※)。その後、ニガヨモギを使用しないアブサンの代替品として製造されたのがパスティスなのであった。パスティスの名はSe pastiser(まがい物、似せる)という意味だ。

 

プロヴァンスの気候、空気、風土の中でアニス風味の清涼感たっぷりのパスティスは多幸感を引き寄せる飲み物として愛されて続けている。地中海で獲れる新鮮な魚介類を食べながら飲むパスティスは抜群に美味い(らしい)。タコの炭火焼き、塩漬けの魚、小魚のフライ、ブイヤベース‥。ここまで持ち上げておいて水を差す気はないのだけど、湿度の高い温暖湿潤気候の日本に暮らす私たちは、パスティスを心底味わうことはできるのだろうか? その土地の飲み物や食べ物は、その場所でやるのが一番に決まっている。沖縄の水道水で割った泡盛、鹿児島で飲む前割り焼酎、日本各地で飲む純米酒‥‥。パスティスのあのアニス系の独特な香りと味わいは、そうはいっても東洋の島国で飲む場合ちょっとした冒険心が必要かもしれない。

 

 

しかし躊躇することはない。パスティスやアブサンを使ったカクテルを飲めるバーが神楽坂にはある。<BAR 鎹(かすがい)>ではアブサンにジンを合わせ、ブレープフルーツジュースで割ったカクテル。アブサンの尖った香りがグレープフルーツの酸味と甘みに包み込まれとても飲みやすかった。<BAR 夢幻>ではペルノーを使った「death in the afternoon」という名のカクテルを試した。ペルノーとスパークリング・ワインを合わせたカクテルでヘミングウェイが考案したという。アニス系の香りはスパークリングのシュワシュワに負けていなかった。これは存外パンチあり。はまれば癖になってしまう酒、パスティス。まずはフルーツカクテルを入口にするのはいいかもしれない。今宵、どこぞのバーでパスティスをためしてみてはどうだろう?(※2)

 

ところで、うちのお客さんで3年間パリで仕事をされ最近帰国したスマートな男性(Tさん)がいます。店の常連さんたちが、コロナ騒ぎが収束したらTさんの案内でフランス・ツアーを是非!と盛り上がっています。(お酒の席の話だけど)。もし私と妻も同行できたら、パリからTGVに乗りプロヴァンスに行ってみたいものです。リュベロン山を望めるレストランのテラスでパスティスを飲んでみたい。きっと東京で飲むそれよりは、ずっと、ものすごく、とてつもなく‥‥‥。

 

 

Book  Bar 余白  根井浩一

 

※)その後、1981年にWHOは向精神作用を惹起する成分(ツジョン)の残存許容量を示して承認したため、アブサンの製造は復活した。

(※2)私の店〈Book & Bar 余白〉にもパスティス、アブサン、ウーゾのご用意がございます。是非お試しください。

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