年に何度か私の店に来るIさんは宇宙物理学を専攻する大学の先生で、学会やイベントなどで上京される折、足を寄せてくれる。その日Iさんはカウンターに座ると、背面の本棚から厚い単行本を抜き取り、ものすごい集中力を発揮して読み始めた。料理をとり、何杯かのグラスを干しながら半分程度を一気に読むと今宵の宿に帰っていかれた。いやあ、あの集中力は並みのもんじゃないね、とカウンターの中から私と妻はおおいに感心したのものだ。その本は『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー(村上春樹 訳)だった。ハードボイルドの古典として有名な作品で同作品は先に清水俊二訳の『長いお別れ』(1958年)がある。こちらの名訳も長く読み継がれている。さて、作品の中で主人公の私立探偵フィリップ・マーロウとテリー・レノックスの二人が友情を育む場所はヴィクターズというBARである。レノックスは億万長者の娘シルヴィアの夫で、どこか陰を宿す不思議な男。やがて彼は妻殺しの容疑者として追われる身となってしまうのだが、ヴィクターズで酒を交わしながらマーロウは彼に友情を抱いてゆくのである。レノックスはギムレットを好んで飲んだ。「本当のギムレットはジンとローズ社のライムジュースを半分ずつ、他には何も入れないんだ」というセリフは有名だ。そして決定的な名ゼリフはこれ、“I suppose it’s a bit too early for a gimlet”he said.(「ギムレットには早すぎる」)。物語全体を通して重要な意味が含まれているフレーズである。そしてギムレットという名のカクテルはこの小説で一躍有名になった。
ギムレットはイギリス海軍の軍医だったギムレット卿が艦内で将校らに配給されるジンの飲み過ぎに憂慮し、健康のためにライムジュースを混ぜて薄めて飲むことを提唱したのが起源とある。ギムレットの発祥地はインド洋上ということになっている。調べてみるとインド洋上で作られたそれはコーディアルライム(果汁50%以上のライムジュースのこと)とジンを混ぜた飲み方がオーソドックスなスタイルとあった。(※)
『ロング・グッドバイ』の中でレノックスがいうローズのライムジュースとジンを半分ずつ混ぜ合わせたものは、ギムレット卿が提唱したスタイルに近いようだ。そして現代はフレッシュライムジュースとジンにスプーン一杯ほどのシロップ、氷を加えシェイクするスタイルのものが多い。どうやらギムレットは、作り手によりレシピの異なるカクテルの代表例のようである。
妻殺しの容疑をかけられた男。レノックス。マーロウとレノックスの関係は、探偵と殺人を犯したかも知れない男であった。これはのっぴきならない状況だ。火事場の友情。大抵の場合、友情はもっと穏やかな境遇の下にあるものだ。ところで「ギムレットに早すぎる」とはどういう意味なのだろう? まだ日が出ている早い時間から酒をのんでしまったとき「あ、ちょっとギムレットには早すぎるね」とか口走ってしまったらアウトである。たとえオジサンでも言ってはいけない。レノックスがマーロウに言ったこのセリフは二人の友情と、タイトルにもなっている『ロング・グッドバイ』に深いかかわりがある。無用なネタバレはしたくないので、お知りになりたければ本書を読まれるか(少々厚い本だけど)、とにかく早く知りたい方はグーグル先生にお尋ねくださいね。
いつかあなたのところでギムレットを飲みたいと、冒頭のI先生からあの翌日ツイッターのリプがきた。神楽坂には抜群に美味いギムレットを飲めるBARがたくさんありますよ、と返事をしたものの、何とかしてローズ社のコーディアルライムジュースを手に入れて、作品の中のギムレットを作ってみたいものだな、と思っている。
(※)『サヴォイ カクテルブック』によれば、「バローズ・プリマスジン1/2、ローズ・ライム・ジュース・コーディアル1/2、よくステアし、ミディアム・サイズ・グラスに注ぐ。好みで氷を入れてもよい」ハリー・クラドックも認めた正統なギムレットである。
Book & Bar 余白 根井浩一
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