『Bar Sylvius』
■店名の由来はシルヴィウス博士です
14年前にフジテレビ系で放送された『拝啓、父上様』は、神楽坂の老舗料亭を舞台にした人情ドラマで、今日の神楽坂の人気を大いに押し上げる風となった。主役は二宮和也(嵐)。神楽坂の各所でロケが行われ、それらの場所は悉く“聖地”となり、多くのファンが押しかけた。3話目で、裏路地の石段を歩くナオミ(黒木メイサ)が抱えていたリンゴを落としてしまい、転がり落ちる果実を懸命に拾い集める一平(二宮)がナオミに一目惚れしてしまった場所。『Bar Sylvius』はその石の階段に面した瀟洒なビルの3階にある。
Sylviusとは人名である。ジンを作った人だ。17世紀、オランダのシルヴィウス博士が薬用酒として研究開発したと語り継がれている。『Bar Sylvius』店主でバーテンダーの田淵さんは、博士をはるばる21世紀の神楽坂に招聘したのだった。オープンは2015年10月だった。
■酒に目覚めた? 中学時代
田淵さん、どうしてバーテンダーになろうと思ったのですか? と単刀直入に聞くと、これです、と言って1冊のコミックをカウンターに置いた。『BAR レモン・ハート』古谷三敏(2020年7月現在、既刊35巻)。田淵さんは沖縄県那覇市のご出身で、父親はお酒が好きな人だった。家の冷凍庫にタンカレーやゴードンなどのドライジンが常備されていたそうだ。父親の愛読書『BAR レモン・ハート』を田淵少年も読み耽けった。その頃、沖縄に初めてのリカー輸入ショップが出店した。田淵少年は父親についてショップへ行き、なんと『レモン・ハート』にでてくるお酒を片っぱしからチェックしていった。もちろん家に帰ると父親と一緒にお酒の味見をしたそうだ。(もう30年前のことだから時効ということで。)田淵さんのお酒にまつわる原体験、それも本格的なそれは中学生のこと。シルヴィウス先生はこのときから彼に目をつけていたのだった。
■上京だ!
高校卒業して東京へ。求人広告を見て初めて勤めたのは渋谷の〈BAR 門〉だった。センター街にある1949年創業の老舗バーだ。日がなグラスを洗い、ホールを担当し、簡単なつまみを作った。<門>に在籍したのは短い時間だった。次に移った先は品川プリンスホテル(港区)新館最上階のバーラウンジ、その名も〈トップ オブ シナガワ〉だった。ここで働いていた3年間でお酒のこと、飲食業のことをみっちり教えてもらった。「店は39階で360度パノラマなんですよ。お台場も、東京タワーも新宿西口の高層ビルも、池袋サンシャインも、遠く横浜の灯も全部眺められるんです。景色がごちそうでしたね。」田淵さんは二十歳になっていた。申し分のない景色、バーラウンジには綺麗な女性、「ああ俺は都会にいるんだなあ」とため息のでる日々だっだ。品川の最上階から次に向かった先はウォーターフロント。竹芝の〈インターコンチネンタル東京〉に6年。田淵さんは港区の2か所の一流ホテルのバーテンダーとして9年間を過ごした。
■剣呑だったけど、その後の自分を作った場所
ところが彼はこのあとの人生で最も過酷な時間を生きなければならなくなる。中央区某所のBAR。名前は言わないでおこう。兎にも角にもリスキーな職場だった。しかし、ここにいた3年間で田淵さんはとても貴重な知識と経験を得ることになった。軍隊なみにきつくて辛かったそのBARでオールド・ボトルやヴィンテージ・ワイン、葉巻の知識、さらにはPCの使い方などたくさんのことを学んだ。「この時代を通って来なければ今の自分はなかったといっても良いくらい、とても重要な修業時代でした。」と田淵さんは述懐する。そしてついに“牢舎”を脱出するときがきた。羽化した田淵さんが着地した先は神楽坂。この町でバーテンダーの職を得た場所は前号でご紹介した〈BAR 夢幻〉だ。今から14年前、田淵さんジャスト30歳のときだった。で、その翌年に『拝啓、父上様』が放送された。
いよいよこのあと、神楽坂で『Bar Sylvius』を開店へ。次号では田淵さんのBARやお酒に向き合う哲学をお聞きします。
『Bar Sylvius』
162-0825 新宿区神楽坂3-6 カーサピッコラ神楽坂3F
Tel 6265-3756
月 ~ 金 17:00 ~ 25:00
日・祝日 15:00 ~ 22:00
土 定休
charge 500円
喫煙可
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