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今宵、神楽坂で

創刊第二号(2020年8月)

僕と鼠とジェイズ・バー

2020年08月31日 17:22 by kneisan2011
2020年08月31日 17:22 by kneisan2011

村上春樹のデビュー作は『風の歌を聴け』である。講談社の文芸誌『群像』1979年6月号に掲載され、7月に書籍が刊行された。文庫本も合わせれば300万部近く発行されているのではないだろうか。すごい数字だ。

『風の歌を聴け』は東京で大学生をしている「僕」が郷里の町に帰省した18日間(1970年8月8日から8月26日)の物語だ。その町は村上自身、中高生時代を過ごした兵庫県芦屋市である。隣には巨大な港町があるという文章がある。今読み返してみると、その町にあるジェイズ・バーが大切な場所であることに改めて気付く。ジェイズ・バーは中国人バーテンダーのジェイが経営するジャズ・バー。『風の歌を聴け』を芝居にしたら、ジェイズ・バーのセットが劇中何度も回転して出現する感じ。店にはピンボールマシーンの3フリッパーの「スペースシップ」と「ジューク・ボックス」が置いてある。

 

 

「僕」と友だちの「鼠」はジェイズ・バーのカウンターでとてつもなくビールを飲み、金持ちの悪口や女の子のことや、ビールと本のことなどの話をする。鼠は大学を中退しこの街に留まっている。

 

一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートルプール一杯分ばかりのビールを飲み干し、ジェイズ・バーの床いっぱいに5センチの厚さにピーナッツの殻をまきちらした。(単行本『風の歌を聴け』P13)

 

「僕」は大抵ひとりでジェイズ・バーに行く。そのカウンターに鼠がいてビールを飲んでいることもあるし、いないときもある。「僕」はひとりのときは、ビールを飲みながら店の絵を眺めたり、ジェイとお喋りしたりする。

 

ひどく暑い夜だった。半熟卵ができるほどの暑さだ。僕はジェイズ・バーの重い扉をいつものように背中で押し開けてからエア・コンのひんやりとした空気を吸いこんだ。店中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと腋の下と下水の匂いがバウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。(同 P53)

 

ジェイズ・バーのカウンターには煙草の脂で変した一枚の版画がかかっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺め続けた。まるでロールシャッハ・テストにでも使われそうなその図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニスボールを投げあっているように見えた。(同 P14)

 

急に誰かに会いたくなった。海ばかり見てると人に会いたくなるし、人ばかり見てると海を見たくなる。変なもんさ。それで、ジェイズ・バーに行くことにした。ビールも飲みたかったし。あそこなら大抵は友だちにも会えるしね。でも奴はいなかった。それで一人で飲むことにしたんだ。一時間ばかりかけてビールを三本飲んだよ。(同 P40)

 

僕がジェイズ・バーに入ったとき、鼠はカウンターに肘をついて顔をしかめながら電話帳ほどもあるヘンリー・ジェームスのおそろしく長い小説を読んでいた。「面白いかい?」 鼠は本から顔を上げて首を横に振った。僕は鼠に「誕生日のプレゼント」を渡す。鼠の誕生日は来月だ。「来月にはいないからね」「そうか、寂しいね。あんたが居なくなると」鼠はそう言って包みを開け、レコードを取り出してしばらく眺めた。(同 P81)

 

夏が終わり、「僕」が東京に戻ったあと、町に残された鼠がジェイの店に通う話は『風の歌を聴け』に続く第二作『1973年のピンボール』(1980年6月発行・講談社)に引き継がれる。

 

ジェイズ・バーのシャッターも既に下りていたが、鼠は半分ばかりそれを押し上げてくぐり、階段を下りた。ジェイは洗ったタオルを一ダースほど椅子の背中に干しおわり、カウンターに一人で座って煙草を吸っているところだった。「ビールを一本だけ飲んでもいいかい?」「いいとも。」とジェイが機嫌良さそうに言った。閉店後のジェイズ・バーに来たのはこれが初めてだった。

 

「今日は来ないつもりだったんだ。」と鼠は言い訳した。

 

「音楽がないと寂しいね。」ジェイはそう言ってジューク・ボックスの鍵を鼠に投げた。

(同 P105)(単行本『1973年のピンボール』P103~105)

 

毎年のことながら、秋から冬にかけての冷ややかな季節を大学を放り出されたこの金持の青年と孤独な中国人のバーテンは、まるで年老いた夫婦のように肩を寄せ合って過ごした。(同 P46)

 

郷里を離れ、学生やビジネスパーソンとして東京で暮らす人は多い。年末年始休暇やGW、そして夏休みなどに地元に帰る。親兄弟や甥や姪たちに会うのは楽しいけど飽きてしまえば、どこかひとりになれる場所でゆっくり時間を過ごしたくもなる。昔馴染みのバーテンダーがいるBARや、大将やマスターがいる飲み屋があったりすると最高だ。東京で通う馴染みの店とはまた違う癒しに身をつつむことができる。遠い東京で自分が生活している間、地元の町ではどんな時間が流れていたのだろう。バーのカウンターで酒を飲みながら、止まっている時計のリューズを巻いてみる。

 

貴方の故郷にジェイズ・バーはありますか?

 

 

【お断り】

村上春樹作品では、「鼠」三部作といわれる初期の3作品『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『ダンス・ダンス・ダンス』にジェイズ・バーが登場します。中でも親密に登場するのは『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』。本コラムではこの両作品から数か所の文章を引用させていただきました。

 

Book & Bar 余白  根井浩一

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