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創刊号(2020年8月)

ジョージ・オーウェルと理想のパブ

2020年08月31日 19:09 by kneisan2011

ジョージ・オーウェル(1903-1950)は、イギリスの作家・批評家です。彼の2つの小説『動物農場』と『一九八四年』はあまりにも有名。彼はパブリックスクールを卒業後、植民地に職を求めてインド帝国警察の警察官になり、ビルマで5年余り勤務しました。その現場で彼は帝国主義が人を支配する苦痛を経験し、また支配される者たちの精神の歪みに気づきます。彼はこの赴任生活を経て本国に帰ると、国民を管理する政治体制(左右を問わない全体主義)に反発する気持ちを強くしていきます。その集大成が先の2つの小説なのです。一方でオーウェルはジャーナリストとしての記事や、書評、文化論などの膨大なエッセイを書き遺しました。それらには英国の人々の生活の中の伝統的なものや、郷愁を描いたものが数多くあります。当時の大衆紙「イブニング・スタンダード」に掲載された記事に彼の日常の顔をみることができます。自然を愛し、庶民生活を愛し、動物、食べもの、ビールを愛する穏やかな目線。その中の1つに『パブ<水月>(Moon Under Water)』というエッセイがあるのですが、ここでオーウェルは自身の考える理想のパブについての空想を逞しくしています。オーウェルが想像した理想のパブとはどんなものだったのでしょう。具体的な描写を見てみましょう。

 

 

<水月>はロンドンの横町にあり、メインストリートから引っ込んだところにあるため、酔っ払いや大声をだす客がその場所を探し当てることは難しい。お客の大部分は常連、飲みにいくというよりもお喋りに行く場所なのだ。私が気にいっているのはビールよりもいわゆる「雰囲気」だ。建物がまずヴィクトリア朝風なのである。ヴィクトリア朝、それは産業革命の経済発展成熟期で、英国絶頂の時代だ。見せかけ、ハリボテでなく、ちゃんとした内装、調度類は何から何までどっしりとしていて気持ちが落ち着く。もちろん席の間隔はゆったりしており、暖炉には本物の火が燃えている。さて、店の中では4つのエリアに分けられている。大衆向け、紳士向け、婦人向け、そして瓶とカップを販売するバー。大衆バーではゲームができる。〈水月〉はいつでも静かでまともに話ができる。ラジオもピアノもない。店の人間はお客の名前をたいてい覚えている。パブには珍しく煙草も売っている。アスピリンや切手も買うことができる。レストランではないのでれっきとした食事はないが、レバソーセージのサンドイッチやチーズ、ピクルスなどがある。2階の食堂ではたっぷりの美味しいランチを出している。そして有難いことにランチにはドラフト・スタウトが付いている。1パイントビールは柄がついた陶のマグで出してくれる。これは大事なところである。ビールは陶のマグで飲むに限る。断然美味いのだ。そして庭。<水月>にはかなり広い庭があり、スズカケの木の木陰には小さなテーブル。子ども用のブランコとすべり台がある。夏の晩、家族連れでやってきて、遊ぶ子どもたちの声を聞きながら親は木陰に腰をおろしてビールやシードルを飲む。<水月>の魅力の最大のものはこの庭なのだ。

 

パブ<水月>は、オーウェルの理想のパブの形でした。21世紀の日本に生きる皆さんにも理想の酒場があることでしょう。これを書いている私にとっての理想の酒場はこうです。

少々たてつけの悪い引き戸を開けると、カウンターだけの狭い空間。人がいいけど寡黙な店主。酒は詳しくないんですよ、と笑う。一方、料理の腕は素晴らしい。旬の食材を使い、見た目も美しく、そして美味い小鉢を魔法のようにだしてくれる。品数は多くはないけど週に2つ3つ新しいメニューが顔を出す。夏は引き戸を半分ほど開け、敷居の隅に蚊取り線香。冬は冷たい隙間風が入り込むけど店の中は暖かい。風の強い日は戸がガタガタと泣く。猫が2匹、天井近くの棚板の上でおとなしくしている。この店はかつて自分が通い親しんだ店だったけど無くなってしまった。もう一度出会えないものかと、ときどき私は空想する。で、いつの間にかそれが私の理想の酒場になった。

 

さて、貴方にとっての理想の酒場それはどんなところでしょうか。

 

【お断り】文中、オーウェルの理想のパブの記述は次の書籍から部分的に引用しました。『一杯のおいしい紅茶』ジョージ・オーウェル 編訳:小野寺健 (朔北社・1995年)の中「パブ『水月』」より。

 

Book & Bar 余白

根井浩一

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