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今宵、神楽坂で

創刊号(2020年8月)

三蔵法師の旅 ~平成西遊記~ ①

2020年08月31日 19:10 by morrly
2020年08月31日 19:10 by morrly

「じゃあ行くか」

 透き通るような青空のもと、私はペダルに載せた足に力を込めた。

 横にいる遠征隊の相方は、私と同じ法政大学探検部四回生同期の宮代。彼は幼少の頃から少林寺拳法をやっていただけあって、礼を重んじるよくできた人間だった。今回の遠征隊のリーダーは彼である。一旦は私がやるとなったが、「坂口には他の活動もあるが、俺にはこれしかない。」ということで彼に決定した。お互いもともとどちらでもいいというスタンスだったので特に問題はなかった。

 日本を出国してから5日。西安での慌ただしい準備期間を終え、いよいよ西安からインドまでの三蔵法師の足跡を辿る旅が始まるのである。

引用:Google Map    注:ルートは今回の旅の行程のみ。

 

 5月17日に名古屋を出発し上海で乗り継ぎ。西安の空港に降り立った時には既に夜遅く、周りは真っ暗だった。空港は市内から50キロ近く離れている。もともと空港内の銀行で換金する予定だったのだが、空港内の店は既に閉まっていた。交通手段のバスも既になくタクシーすらない。我々は呆然としたが、唯一、空港そばのホテルが存在していたので、フロントで換金しそのまま宿泊した。

 翌朝、法政大学の徐教授に紹介していただいた西安考古学局の張さんに連絡し迎えに来てもらった。張さんは日本留学経験もあり日本語はペラペラだった。一緒にバスで市内に移動。西安の街は車が砂を巻き上げるので埃っぽく、昼間は日差しが強かった。張さんには出発までの間、省政府、公安局などを回り通行許可の情報収集、自転車調達などを手伝ってもらった。西安で調達したものとしては、人民チャリ(386元、当時の1元は約13円)、前かご(11元)、空気入れ(16元)、ザックを入れる用の麻袋(1元)、自転車の登録照明のナンバープレート(4元)である。デパートのマネキンは金髪が多く黒髪はなかった。タバコは2~3元のものが普通、(因みにマルボロは11元だった。)普通の人の月収は約400元、食事の注文は2品+スープ1杯、などなど張さんに現地の情報を教えてもらった。自転車を買った当日、早速私の自転車はパンクしてしまった。先が思いやられる。

 5月20日 旅行証申請の為、公安局へ行くも各課をたらい回しにされた。途中、交通量が多い割りに信号が少ない為、道を渡るのに何度も死にそうになった。公安局の建物はひときわでかく、威厳があり、市民を圧倒しているように感じられる。ただ、中は昔の小学校だったようだ。結局、陝西省内は許可不要とのことだった。本当か?と思いつつも問題ないと言っている以上しょうがないのでさっさと退散した。

 出発前夜、張さんが我々を自宅に招いてくれ、ささやかな宴会を開いてくれた。張さんと張さんと同じ職場の姜さん、我々二人の四人で卓を囲み張さんの奥さんの手料理をいただく。文化大革命の頃の話や日本留学時代の話など様々なことをお聞きした。

 

 酒は中国といえば白酒、かと思ったが意外にも普通にビールが出てきた。ビールも日本で有名な青島ビールではなくこの地方オリジナルのビールであった。銘柄は忘れてしまったが、「黄瓜啤酒」(きゅうりビール)だったと思う。味はさっぱりしていて西安の乾燥地域にはぴったりだった。商店に並んでいるビールを見ても知った銘柄は一つもない。日本ではクラフトビールが流行って大分種類が増えたが、このころ既に中国のビールは各地方にオリジナルが存在していた。現在は中国でもクラフトビールが流行り、更に多くのビールが存在しているのだから、種類だけみれば日本の比ではないと思われる。

 

 宴の最後に張さんが、「これを贈ります。」と一枚の紙に文字を書き始めた。

 

渭城朝雨浥軽塵

客舎青青柳色新

勧君更尽一杯酒

西出陽関無故人

 

王維「送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)」 

訳:渭城(いじょう)の朝の雨が土ぼこりを濡らし、旅館の前の柳は青々と一層鮮やかである。さあもう一杯飲もうではないか。西方の陽関を越えていったら友人もいないのだから。

 

唐詩であった。まさにこれから西へと旅立っていく我々にとって、またこの場にぴったりの漢詩であった。

 そして1996年5月21日午前9時、ついに我々ふたりは中国西安で購入した俗に言う人民チャリを漕ぎ出し、夢にまで見たあのシルクロードの出発点・開遠門(かいえんもん)を後にしたのである。ただし、門といってもそれらしいものはなく、工事中となっていてどこがその跡地なんだかわからなかった。

 

 

 我々はなぜここにいるのか、それは遥か昔にまで歴史を遡らなければならない。

 629年、唐の高僧・玄奘三蔵は中国西安から中央アジアを経て、遠くインドまで経典を求めて旅立った。氷と雪に閉ざされた天山山脈や果てのないタクラマカン砂漠を越える、三万キロもの想像を絶する艱難辛苦の道のりであった。この夢とロマンにあふれる壮大な旅のドラマは、その偉大さゆえに『西遊記』の物語で、今なお色あせることなく語り継がれている。

 我々はこの知っているが知らない道を体感するため、またその三蔵法師(経蔵・律蔵・論蔵の三蔵全てに精通した高僧の敬称であるが、いつしか玄奘その人の俗称ともなった)に少しでも近づくために『玄奘三蔵西域踏破遠征隊』を企画したのである。玄奘と同じ西安(当時は長安)から出発し、同じルートを通ってインドへ至る果てしなく長い旅だ。ただ、資金的な問題から全行程を一気に進むのではなく、ひとまずの目的地を新疆(しんきょう)ウイグル自治区のアクスに定めた。それ以降の行程は別の年に二次隊、三次隊が進む。

 だが、これはただのバックパック旅行ではない。我々は、この道を点ではなく線で知るために、町と町との間を気軽に過ぎ去ってしまう鉄道やバスは使わず、己の体力と昔からあったであろうロバ車で移動することにした。日本で地図を前にひたすら考えた結果、西安から古くからのオアシス、トルファンまでは自転車を走らせ、そこでロバ車に乗り換える行程になった。

 また、中国には外国人未開放地区という場所があので、服装は出来るだけ現地に馴染む恰好にし、自転車もMTBなどではなく、中国でよく見る人民チャリを選んだ。

 こうして我々は西へ向けて、開遠門を勢いよく出発したのである。玄奘の背中を思い描きながら――。(つづく)

 

bar Morrlü 坂口篤史

 

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