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今宵、神楽坂で

創刊号(2020年8月)

バー巡り・其ノ壱 

2020年08月31日 19:08 by kneisan2011
2020年08月31日 19:08 by kneisan2011

<BAR 夢幻>

 

 

2020年7月、JR飯田橋駅西口は新しくなった。その改札口をくぐり、外濠通りに下ったところが神楽坂下。そこから坂を上って行き、神楽坂のシンボル毘沙門天(善國寺)のちょい手前を右に折れる道が本多横丁で、角から右側7軒目が今回ご案内の<BAR夢幻>である。半地下で、階段を7段ほど下りて木の扉を押し開けると、そこはもう異界だ。『BAR 夢幻』はカウンターのみ、椅子はない。スタンディングバーであり、正統派バーだ。夢幻は「夢と幻」。儚い世界を表す。私たちが日々付き合っているリアル(実体)。しかしそれは宇宙の物差しを当ててみれば、頼りないほど儚く、一瞬で蒸発してしまう世界だ。所詮この世は夢と幻。ならば、<夢幻>という名のBARのリアルに身を委ねてみるのもたまにはいい。第一回目の「今宵、神楽坂で」バー巡りは<BAR 夢幻>からスタートしようと思う。  

 

■夢幻と無限

「どうして<夢幻>という名なのか、オーナーは教えてくれないんです」と<BAR 夢幻>バーテンダーの松永さんは笑う。そしてひとつ、思わず驚いてしまう事実がある。それは松永さんの下の名前は「無限」というのである。夢幻が無限を引きつけたのか、夢幻の世界にいる神様のお茶目ごころなのか。無限さんは20歳のとき、埼玉のBARで初めてバーテンダーになった。ある日、飲みに来た友人に雑誌を見せられ、「ほら、<夢幻>というBARが神楽坂にあるみたいだよ」と教えられた。早速行ってみることにした。2013年の秋のことだった。そのとき<夢幻>のバーテンダーは田渕さんといった。名刺を交換したら田渕さんの名前は無(む)さん。無限の無、無さんの無。「本当に吃驚しました。二人の名前の奇偶な巡り合わせに話が盛り上がりましたね。」2年後、無さんが同じ神楽坂に<BAR Silvius>を作り独立するタイミングで無限さんは電話を受け取った。そうして2015年10月、無限さんは<BAR夢幻>に移籍。それから約5年、無限さんは<夢幻>のバーテンダーをしている。

 

 

■<BAR 夢幻>

半地下のバーに設えられた長いカウンター。椅子はない。今は新型コロナウイルス禍だから、ディスタンスを考慮すると6人から7人くらいが丁度いい感じ。ちょっときついけど、マックス20人までは入れますよ、とのこと。店に足を踏み入れて目がなれるまで30秒ほど時間が必要。この暗さが心地よい。そして何だろう、この甘い匂い。<BAR 夢幻>に来たな、と安心するこの匂い。カウンターの中には、バーテンダーの無限さんただひとり。白いシャツ、ネクタイ、ベスト、サロンを着こなして、スタイリッシュでとても姿勢がいい。そして貴方がきょうの気分で飲みものをオーダーすれば、彼は無駄のない会話でその日のフィーリングにぴったりのお酒を調合してくれる。神楽坂のBARを初めて訪問するなら<BAR 夢幻>から始めるのがいい。無限さんが、この街のBARを丁寧に教えてくれるだろう。

 

 

■バーテンダーとして譲れないこと。

無限さんは7月7日・七夕が誕生日。ついこの間29歳になった。バーテンダーになって9年だ。

彼がバーテンダーとして譲れないことは、ストイックに基本を徹底すること。バーテンダーの一丁目一番地、それは「所作」だと無限さんは言う。「まず所作ありき。バーテンダーとしての洗練された動きを心がけています。意識を集中してお客様のお酒を作る。それがすべてです。」 だから、バーテンダーがお酒を作っているときは無暗に話しかけてはいけない。お酒を作っているときは自分を含めた 空間のイメージだとか、感性で受け取る何かを大切にしたいと、無限さんは続ける。「ようするに、自分が行きたいBARにしたいということなんですけどね」。なるほど。

 

 

■ひとりになったとき考えていること。そしてBARの宇宙観。

お客さんが途切れたとき、無限さんはカウンターを出てお客さんの側に移動し、そこからカウンターの中を眺めるようにしている。そして酒瓶やグラスの並ぶ棚を見る。その絵は崩れてはいないか、汚れはないか、全体のバランスはどうか。無限さんはそうして<BAR夢幻>の世界を維持する努力をしている。永遠の微調整に妥協はしない。店内の照度にも気を遣っている。「照明はつねに調整しています。その日の天気、温度、湿度などから受ける感覚で微妙に調節します。逆にいじっていなくてもお客様の方から『きょうは少し明るくない?』とか『いつもより暗くない?』とか言われることもあります。お客様の体調や気分で明暗に対する感覚も変わるんですね。面白いです。」

貴方が行かなければその場所は開かれない。貴方にとってその世界はこの世に二つとなく、そして人の数だけそれは存在している。求める者にとって意味のある場所。その人にとって何か象徴的なものとしてのトポス(場所)。それがBARという一つの主題なのだろう。無限さんは誠実に「主題」と向き合い、BARの宇宙の中で今宵もタクトを振る。

 

■お酒のこと

BARに行ったら最初の一杯はまずこれを飲むべし、といような約束はあるのだろうか?「気にし過ぎる若者は多いですね。飲みたいと思うものを言ってください。たとえば、シュワシュワしていて甘くないやつ、とか。ぼんやりとでもイメージを仰っていただければ、その後の会話のキャッチボールをしながらお客様のイメージに合うものをお作りします。シングルモルトウイスキーのソーダ割りだってオーケーです。遠慮なさらずに。お客さんにとって美味しいと思うことが大切なのです。」と指南してくれた。もちろんギムレット、サイドカー、マティーニ、マンハッタンなどの王道のカクテルは季節を問わずよく飲まれるとのこと。それから最近よくでるのはボビーズジンやモンキー47などのクラフトジン。それをトニックやソーダで割ってシンプルに味わう人がふえているらしい。多種類の中から自分好みを探す楽しさ、多様性の中での一期一会を大切にしたいというスタイルがクラフト人気を支えているのだろう。ちなみにクラフトビールもよく飲まれているそうだ。ところで無限さんの好きな酒を尋ねてみた。「テキーラとジン、ウイスキーですね。テキーラは若いものから熟成が進んだものまで全般、ジンはタンカレーとかロンドンヒルなどオーソドックスなものを。ウイスキーはスコッチかな。シングルモルトもブレンデッドも大好きです」とのことだ。

 

 

■無限さんはなぜバーテンダーになろうと思ったのか?

無限さんは中学を卒業すると少年工科学校に進んだ。少年工科学校とは、防衛大臣直轄機関の一つ(2010年に陸上自衛隊高等工科学校に改編)で、陸上自衛官を養成する教育機関だ。15歳から18歳までそこで“鍛え”られ、その後は陸上自衛隊で任務にあたった。勤務地は静岡県富士駐屯地。20歳で酒が飲めるようになると、週末に沼津のBARに通うようになった。行きつけのBARは<Victory>、そして<Toms Bar>。お酒に詳しくなりたかったので、往復の電車の中で「カクテルブック」「洋酒ハンドブック」を読み込んだ。自衛隊ではピストルからミサイルまでの弾薬を相手に仕事をし、週末になると馴染みのBARで静謐な時間と空間に身を埋める生活をしていたわけである。それにしても、10代の学校時代の厳しい規律生活、拳骨が物言う日常が重く貴重な体験になったと無限さんは振り返る。そういうわけで、今<BAR夢幻>に立つ彼の肉体と精神は筋金入りだ。バーテンダーとしての美しい所作を追求し、<BAR 夢幻>の宇宙を護り続ける。この仕事をしていてよかったと思うことは2つあります、と無限さんは話す。一つは、自分自身が人間らしくなったと思うこと。自衛官になるための厳しい体験と時間を潜り抜けたあと、バーテンダーになってみて少しずつ人間になりましたと白い歯を見せる。「あの頃はニコリともしませんでしたから」だったそうだ。二つ目は、この仕事をしていなければ、会うことがなかった人たちに出会うことができる喜びです。「でもときどきね、自衛隊のやつがふらりと来てくれると嬉しいですね」と言った。

 

■神楽坂という街について

最後に神楽坂の印象を無限さんから。「神楽坂は敷居が高く、高級な店が軒を連ねているというイメージを持たれるけれどそんなことはありません。料理や酒の種類も、来られるお客さんの年齢層もとても幅が広い。いろいろな人たちを受け入れる、懐が広くて優しい街です。是非一杯やりに来てください。」

 

 

人生は儚く夢幻(ゆめ・まぼろし)かもしれない。でもまあそれは一寸措いといて、今宵は<BAR 夢幻>に美味しいお酒を飲みに坂を上がってみませんか。無限さんがあなたを待っています。

 

 

<BAR 夢幻>

営業時間 月曜~金曜  19時~27時 

土曜・祝日  17時~24時 

日曜     定休日

住所   新宿区神楽坂3-2-56

TEL   03-3267-2777

煙草は電子タバコのみ可。Wifiあり。予約不可。 

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